西暦 |
年齢
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1920 |
0 |
ヴィアン
パリ近郊のヴィル=タヴレーに生まれる。
(兄レリオ、1918年生、弟アラン1921生まれ、
妹ニノン、1924年生)
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1921 |
1 |
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1922 |
2 |
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1923 |
3 |
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1924 |
4 |
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1925 |
5 |
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1926 |
6 |
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1927 |
7 |
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1928 |
8 |
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1929 |
9 |
ヴィアン家の経済状態窮迫する。 |
1930 |
10 |
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1931 |
11 |
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1932 |
12 |
心臓性リュウマチ始る。 |
1933 |
13 |
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1934 |
14 |
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1935 |
15 |
腸チフスにかかり治療がおもわしくない。ギリシア語−ラテン語の
大学入学試験にパス。 |
1936 |
16 |
パリのコンドルセ高等中学の数学科に入学。三十九年まで
ヴィル・タブレでのジャズとダンスパーティー。
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1937 |
17 |
この頃、トランペットを通してジャズに興味を持つ。 |
1938 |
18 |
パリでデューク・エリントンの演奏会。 |
1939 |
19 |
国立高等工業学校(エコール・サントラル)に入学。 |
1940 |
20 |
避難先カーブ=ブルトンでミシェル・レグリーズに出会う。 |
1941 |
21 |
ミシェル・レグリーズと結婚。 |
1942 |
22 |
ジャズ・クラリネット奏者クロード・アバディと知り合う。
息子パトリック生まれる。国立高等工業学校を卒業。
標準規格協会に技師として就職(1946年まで)。 |
1943 |
23 |
アンダン騒動を書く(1966年刊行) |
1944 |
24 |
ビゾン・ラヴィの名前でホット・クラブ・ド・フランスの会報に短い詩を
発表する。父ポール・ヴィアンが暴漢に襲われて死亡。 |
1945 |
25 |
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1946 |
26 |
レーモン・クノーの紹介でボーヴォワール、サルトル、と知り合う。
『現代』に短編『蟻』を発表。ヴァーノン・サリヴァンの名前で
『墓に唾をかけろ』を刊行。 |
1947 |
27 |
『ヴェルコカンとプランクトン』刊行。『日々の泡』刊行。『屠殺屋入門』
を書く(翌年『カイエ・ド・プレイアードに発表)。『ペキンの秋』刊行。 |
1948 |
28 |
娘カロール生まれる。『墓に唾をかけろ』(戯曲)初演。
「物への慎重な接近」講演。
サンジェルマン・デ・プレ・クラブ開設(1949年まで通う) |
1949 |
29 |
『凍った哀歌』刊行。『墓に唾をかけろ』発禁となる。
『蟻』刊行。ユルシュラ・キュブアレールと知り合う。 |
1950 |
30 |
風俗壊乱の有罪判決をうける。
『サン=ジェルマン=デ=プレ・要覧』完成(1974年刊行)。『屠殺屋入門』初演。『最高の職業』刊行。『赤い草』刊行。
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1951 |
31 |
『将軍たちのおやつ』を書く
(1962年『コレージュ・ド・パタフィジック会誌』に発表、1965年初演)。 |
1952 |
32 |
コレージュ・ド・パタフィジックに加わる。ミシェルと離婚。
ストリンドベルイ作『令嬢ジュリ』翻訳上演。
ブラッドベリー作『一兵士の物語』を翻訳刊行。 |
1953 |
33 |
ヴォークト作『Aの世界』翻訳刊行。
『俺はくたばりたくない』を書く(1962年刊行)。
オペラ『雪の騎士』上演(音楽・ジョルジョ・ドルリョ)。『心臓抜き』刊行。 |
1954 |
34 |
ユルシュラ・キュブレールと再婚。
この頃より歌の公演旅行、レコード作りにはげむ。 |
1955 |
35 |
フィリップスのアートディレクターになり、1958年までに
60枚以上のレコードを作る。 |
1956 |
36 |
肺気腫悪化。 |
1957 |
37 |
『雪の騎士』ナンシーにて再演。 |
1958 |
38 |
『ソレユケ、音楽』刊行。」オペラ『フィエスタ』上演
(音楽、ダリウス・ミョウ)『建築術とSF』公演。 |
1959 |
39 |
『帝国の建設者たち』をコレージュ・ド・パタフィジックより刊行。
映画『危険な関係』に出演。映画『墓に唾をかけろ』の試写中に心臓発作で急死。
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