ボリス・ヴィアン (Boris Vian) は、1920年、パリ郊外ヴィル・タヴレに生まれ、1959年に早死した。国立高等工業学院を卒業して技師として勤務しつつ『ヴェルコカンとプランクトン』(46)、『日々の泡』(47)を書いたが、アメリカ小説の翻訳と称する『墓に唾をかけろ』(46)を公表したことが筆禍をまねき、以後『北京の秋』(47)、『赤い草』(50)、『心臓鋏』(53)等の作は殆ど無視された。
創作を放棄した彼は、ジャズトランペット奏者、シャンソンの作詞作曲者、歌手、俳優、発明家として生涯を終えた。一時オートレーサーを志したこともあったが、宿痾の心臓病に阻まれ、果たさなかった。死後数年して彼の文学はコクトー、サルトル、ボーヴォアールらによって再評価され、すべての作品が復刊されるとともに、戯曲の上演、劇作集、詩集、の刊行が相次ぎ、若い読者層から圧倒的人気を受けている。夢と現実、そして、実存を苦いユーモアで交織した独特の作風は、現代社会の奇態な映像を自由自在な言語表現に投射して、異色の劇画的文学を形成している。
というのが、一般的に、ボリス・ヴィアンがボリス・ヴィアンとして知られているところだ。彼の経歴は、誰が見ても驚かざる得ないものである。なんとまぁ、いろいろやっているのだろうと……。そのことについては彼自身が面白いことを言っている。
『人間、生活の心配がなければ創作するのはやさしいことだ。だが利子生活者でもない以上、精神的売春をする以外、創作だけで生きていけるものではない。それがいやならほかの仕事をすることだ。しかしそうなるとまた、いろいろ不都合が出てくる。数種の職業を持っていると、アマチュアというレッテルがつく。だがしかし、その世間でいうところのアマチュアが、数種の職業においてそれぞれプロであるとこいうこともありえるのだ。』
この言葉の通り、彼が就いたすべての職業において、彼はプロであった。
フランスのシャンソンの歴史においてボリス・ヴィアン作の『脱走兵』という歌は有名(戦時下のフランスで、『脱走兵』は放送禁止になった。また、日本でも、ベトナム戦争時に、反戦フォークとして歌われたようである)である。彼は作詞作曲だけではなく、自身歌手でもあった。
その姿は『LE
DESORDRE A
VINGTANS』という記録映画で現在も見ることができる。この映画で彼がインタヴューに答えるシーンがある。ここではヴィアンのけれん味たっぷりの人となりがよく表れている。
(注:このインタヴューはすべて流暢な英語で行われています)
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インタビュアー:このイタリアンスパゲティーの歌のアイデアはどこから?
ヴィアン
:イタリアを知らないから知るために書いた。*1
インタビュアー:職業はいくつお持ちですか?
ヴィアン
:最初はエンジニア、数学に弱かったから。僕にとっては本物の免状が必要だった。馬鹿なことをするためにはね。*2
インタビュアー:そのかわりに作家に?
ヴィアン
:いやエンジニアをしている間の手遊びだよ。暇つぶしに本を書いた。
インタビュアー:英語の本も翻訳なさるわね。
ヴィアン
:かつて英語の本を書き、翻訳だと偽ったんだ。それ以来英語の翻訳の依頼が来るようになった。単純な話さ。*3
インタヴュアー:作曲もしますね。
ヴィアン
:最初は(トラン)ペットだったがあれは演奏中に歌えない。すくなくとも楽じゃない。それでギターを習った。つまりハーモニーを学んだ。これだと恰好よく歌えるね。
インタヴュアー:ジャズファンですか?
ヴィアン
:20年もジャズに熱中している。最初に恋したのは(デューク・)エリントンだった。*4
インタヴュアー:では、現在の職業は?パリのクラブで歌ってますね。
ヴィアン
:トロワ・ボデやラ・フォンテーヌでね。小さくて良い店だ。
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*1について
このような発言は彼特有の言い回しでこれに類似する発言は随所で見られる。彼がエンジニアになったのは数学ができなかったからだとこのインタヴューでも言っているが、彼はいつもこのような逆説的な表現を好んで使った。ボーヴォアールの自伝著書『或る戦後』においても、はっきりと「ヴィアンはパラドックスを多用し……」などちょっと呆れ気味にかかれていたりする。
この映画でも『脱走兵』が流れた後に、おそらく彼の言葉であろうセリフが挿入されていた。
『起こっていない戦争を笑えないなら、起こった時も笑えない。起こる前に愚弄したほうがいい』
ヴィアンらしい皮肉で痛烈な言葉である。
*2
彼は一方で安定した生活を得るためにエンジニアとなった。しかし、彼は『日々の泡』という後年彼の代表作といわれる小説をプレイヤッド賞に応募した際に、仕事を辞めている。彼はこの賞を取ることができるかに、これから創作生活を送ることができるかどうかを賭けていたようだ。しかし、日々の泡は最終選考で惜しくも落選する。
* 3
『墓に唾をかけろ』のことである。
『墓に唾をかけろ j'irai
cracher sur vos
tombes』は彼の名を世に知らしめた作品である。そしてなによりこの本は裁判沙汰になったことで売れに売れた。(後年、発禁処分となる)彼はこの本をアメリカ人黒人作家ヴァーノン・サリバン作として発表した。そして、それはすぐに実は翻訳者ボリス
ヴィアンが作者であることが分かった。さらに、この裁判で提訴が退けられると、直ちにヴィアンはヴァーノン・サリバンの第2作『死の色は皆同じ』を発表する。
* 4
彼は小説の中で言っている。
『――――かわいい少女たちとの恋愛、それとニューオリンズの、つまりデューク・エリントンの音楽。他のものは消え失せたっていい、醜いんだから。』(『日々の泡の「まえがき」より』
この例をひくまでもなく、彼の文学の中ではジャズや黒人音楽に関する叙述は頻繁に見られる。彼の作品「墓に唾かけろ」と「死の色は皆同じ」は黒人を主人公に人種問題を大きく取り上げた小説である。これらからもアメリカというものが彼に影響を与えていることは明らかである。
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私はこの映画で、一箇所気になったことがあった。
それはヴィアンのことをほとんど知らない青年の言葉である。彼は言う。
「彼の曲は知らない。(知っているのは)『脱走兵の歌』『原爆のジャヴァ』くらいさ。」
「評価できるのはとても真面目。言いたいことを言っていることだ。」
私はこの「真面目」という言葉を非常に興味深く聞いた。
当時、彼の作品はすべて評価されなかった。そして、なにより彼自身(ボリス・ヴィアンという名前によって)が誤解されていた。ようやく彼が評価されるのは彼の死後数年してからである。映画の中で娘のキャロール・ヴィアンは言う。
「当時、父は正しく評価されなかった。内輪では有名な人であったけれど……。今になってようやく理解された。」
彼女が言うようにヴィアンは仲間内でしか有名でなかった。
しかし、ヴィアンは死後数年して注目されることになる。フランスで起きた60年代の学生紛争”5月革命”以降はその人気は安定し、作品は読み継がれ、現在では「若者の作家」的な位置を与えられることになった。
彼は世の多くの作家がそうであったように死後初めてその業績が認められたのであった。
1959年。BORIS
VIANは奇しくも原作の映画『墓に唾をかけろ』の試写中に心臓発作で急死することになった。それは医師が「トランペットを辞めなければあと十年しか生きることができない」と言ってから、ちょうど十年目のことであった。