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○自然主義・ゾラの創作理論

 ゾラの創作理論に影響を与えたのはクロード・ベルナールの『実験医学序説』であった。ゾラはこれにならって『実験小説論を』書いた。ゾラはそこで作家に、学者の眼と方法で人間を観察せよといい、書物の中で、人物の上に実験室の実験を行えと勧める。ゾラはそのような、小説家は事実を集める観察者であると共に、実験に従う実験者である、という方法によって「自然主義作家は写真師(レアリスム)であると」いう非難から逃れようとした。しかし、一方でゾラは自分自身の創り出したものを定義する段になると困惑し、自然主義という名前を採用したのは、新しいものを人に信用させるためには、とにかくそれに名前をつけなければならないからだ、ということを仲間に対しては進んで認めていた。彼はおそらく自然主義の目的が一時代を制したロマン主義なるものを打ち倒すことであり、芸術が出来る限り正確な現実の再現であることを望んでいた。そして、最後にシャンフルーリーやデュランティの「写実主義」を―――革新しようという下心をもって―――受け継いでいることを認めていたのであった。


・自然主義とは
 フローベールを崇拝していた歴史家であったゴンクール兄弟が先駆者といわれる。ゾラが彼らの影響から『テレーズ・ラカン』を書き上げ、『ルーゴン=マッカール叢書』によって結実させた。第3共和制時代に隆盛。実証主義に依拠していた写実主義の手法を一層、徹底化させた文学と言える。

*自然主義についてはゾラの頁でもう少し詳しく見る予定。

 

ギィ・ド・モーパッサン/Henri René Albert Guy de Maupassant(1850−1893)


○自然主義の代表的な小説家。
モーパッサン

 モーパッサン Henri René Albert Guy de Maupassant(一八五〇−一八九三)の出生届はDieppeの近くのTourville-sur-Arquesになっていて正確なところは不明であるが、北フランスの、ノルマンディの生まれであることに間違いない。両親が離婚したため、母の手一つで育てられる。
 バカロレア合格後、普仏戦争に従軍する。モーパッサンという作家は、道徳的にも宗教にも縛られない自由主義者、平和主義者である。その愛国心とプロイセン嫌いはこの戦争体験からきている。この戦争体験は彼に、人間の持つ残虐性、利己主義、愚かしさなどについて癒しようのない悲観主義を彼の心に刻みつけた。
 1872年に退役し、以後、パリに出て十年近く海軍省と文部省に勤めつつ、ルーアンの高等学校時代から、母の友人であったフロベールに師事して文学修業を続ける。日曜ごとに、ルーアンのフロベール宅か、師がパリにいるときはミョリヨ街を訪れ、本格的に詩や散文の添削を受ける。独創性を持つこと、描く対象を凝視することを教え込まれ、リアリズム作家モーパッサンの根底が作られていった。
 1874年、モーパッサンはフローベールに紹介されて、エミール・ゾラを知った。当時、ゾラを中心として若干の若い文学者たちが、パリの郊外メダンにあったゾラの別荘に集まって文学を論じ合っていた。そして1880年、ゾラの下に集まる若きナチュラリストたちの普仏戦争に取材した作品を持ち寄って『メダンの夕べ』が編まれた。その中に収められた『脂肪の塊』(八〇)で彼は文壇へのデビューを確実なものにした。師のフローベールも死の直前にこれを読み大いに感服し、「これこそ正真正銘の傑作」と絶賛した。この作品が高い評価をうけると彼は精力的に作品を発表しはじめる。新聞・雑誌に評価、寄稿し、九二年に発狂して死ぬまでのわずか十数年のうちに、『女の一生』(八三)『ベラミ』(八五)など六篇の長篇を含む三百篇あまりにものぼる中・短編小説、旅行記三篇、詩集一巻、戯曲数篇、その他文芸批評等おびただしい量にのぼっている。
 モーパッサンの晩年は幸福であったとは言えない。28才の頃より神経系を自覚しており、多作による過労と女性関係の不摂生とによって、病気はますます昂進する。狂人小説『オルラ』(八六)は冷徹な心と目で幻覚や狂気の世界を描いたものではあるが、この頃よりモーパッサンには狂的兆候が少しずつ現れ始めてきた。弟が若くして狂死したことから考えて、彼の血の中にも遺伝の狂気が住まっていたものと思われる。1892年1月、病がさらに昂じたモーパッサンは、ニースの別荘で咽喉を切って自殺を図ったが自殺におわり、パリ郊外のパッシイの精神病院に移された。翌年3月頃から病状はさらに悪化、ついに7月6日43歳の短い生涯を閉じた。



小説の題材

モーパッサンは、フロベールの教えをうけた明晰な文体と簡潔な客観描写、言い換えれば、客観的で没個性的な手法によって近代短編小説を完成したと評される。どちらかといえば想像力はさほど豊かでなく、また社会小説を書くに必要な構成力も持っていなかったモーパッサンの描く世界は大体において彼が実際に生きてきた環境に限られていた。彼が少年、青年時代を過ごしたノルマンディの自然そして、そこで生活していた農民や漁夫を題材に、彼の体験した普仏戦争からは戦争が人間の心理に及ぼす残酷な影響を題材に、パリでの役人生活からは因循姑息な小役人やその家庭をテーマとした、いわゆる小市民生活の悲喜劇を題材に、また、役人生活を続けながら、仮病を使って習作の筆を取ったり、セーヌ河にボートを浮かべて憂さ晴らしをしていたことは有名で、このセーヌ河も多くの青春物語や、こうした遊び場所につきものの娼婦を題材に、さらにモーパッサンが文壇の寵児となってからは華やかな社交界が題材に、それから、一生を通じて彼を苦しめた神経障害による恐怖感や幻覚からも数多くの作品が生まれた。自分の精神異常さえ自分自身で観察し、自分の手で書きとめねばならなかったことは彼にとっては宿命的な悲劇であった。このように、さまざまな人間を対象にしているが、多くの場合彼の観察の眼は冷徹であり、態度は皮肉であった。現実を容赦なく描くことによって現実を批判しながら、その現実を変形させようとする思想も愛情も彼にはなかった。この点も、彼が多くの人々によってあきたらなく思われている所以であろう。
 モーパッサンはゾラのように全体を体系化することなく、日常生活に垣間見られた人間の愚劣さと残酷さの織り成す悲劇を、冷徹な目でペシミスティックに描きだした。このペシムスムは現実を直視する作家の陥りがちな傾向であり、また時代精神の影響でもあり、さらに師フロベールの手本もこの傾向を助長するものであったにちがいない。また、ショーペンハウエルなど世紀末のニヒリズムの影響もあった。しかし、そのペシミスムの一番の原因は彼が生まれながらに持っていた神経的な疾患であったことは否めない。


小説技法―フロベールとの違い―

モーパッサンは客観的で没個性的な手法を師のフローベールから教えられていたが、それを実際に応用して成功している点においては、師を一歩凌いでいるといってもいいかもしれない。フローベールは、彼の生きていた文学的環境からロマンティスムの影響を強く受けていたし、また、彼の生来の性質、心情には多分にロマンティスムの要素があった。それに対し、モーパッサンが生きていた文学的環境はすでにレアリスムの色彩が濃厚になっていたし、また、人間としての彼も、どちらかといえば冷徹なレアリストであった。モーパッサンは『フローベール論』の中で、「フローベールは人物の心理を、説明的な論議で繰り広げてみせる代わりに、単にそれを人物の行為で示していた。こうして、心の内部は、なんら心理的な議論無しに、外部によって解き明かされてきた」と言っていが、これはまた彼自身の制作態度でもあった。つまり、簡潔な客観的描写で、事物の本来の性格を浮かび上がらせ、人生の断片を活写する、それがモーパッサンの芸術の精髄であった。
 また、具体的に作品の比較から見ると、フロベールとモーパッサンの代表作『ボヴァリー夫人』と『女の一生』は人間の宿命的な悲しい生の営みを描くというその主題と共にこの二つの作品はかなり相似性をもっている。しかし、その相似性はあくまで外面的なものであって、作品の性格からいうと、非常な相違がある。一番大きな相違は、ボヴァリー夫人は、作者フローベールの血と肉を自分の血と肉としているのに対して、ジャンヌは女性の生涯とはだいたいこのようなものであるとして、作者から客観的に外から眺められている点にある。批評家のチボーデも、「モーパッサンはゾラとおなじように、小説の諸人物を実に楽々と受け入れている。彼は、フローベールやドーデのように、それらの人物を自分のうちに住まわせてはいない」と言っている。

 

▽主要作品

・『脂肪の塊』 bk1
・『女の一生』 bk1
・『ベラミ』
その他短編多数↓。

モーパッサン短編集(123)という文庫が新潮から出ています。


×ミキモトコメント
 モーパッサンが本質的に短編作家なのは多くの人が認めるところで、その作品数と、テーマの多彩さを見ると驚かざるえません。とりあえず今読める306篇の内、なんらかの形で死を扱ったものが三分の一以上あるそうです。ペシミスティックさでは、同時代の作家の中では間違いなくNO1ですが、中には滑稽な人物を描いたものもあったりととにかく一言でいいあらわせない作家です。とても読み易い作家で短編、『脂肪の塊』、長編なら『女の一生』がおすすめです。
因みに19世紀の作家では僕はモーパッサンが一番好きです。




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