ヴィクトル・ユゴー
Victor Hugo(1802〜1885)
○ロマン主義を代表する詩人、小説家、劇作家。 |
ヴィクトル・ユゴーは、1802年、ブザンソンにナポレオン軍麾下の軍人・父レオポルと裕福な商人 の娘・ソフィーの子(三人兄弟の末っ子、アベル、ウジェーヌ、ユゴー)として生まれた。ユゴーは早 熟な少年であった。14歳の彼は「ぼくはシャトーブリアンのような人物になりたい。それ以外は一切 御免だ」と記している。そして、17歳でトゥルーズのコンクールに参加し、一等賞を授与される。この ように若くして文学を志し、若くして才能を開花させたユゴーの人生は波瀾万丈の83年間であった。 彼の長い人生は大きく4つの時期に分けられる。以下、その4つの順番で見ていきたい。 ○第一の時期(1814〜1830年) 第一の時期は1814〜1830年の王政復古にほぼ一致する。『オードとバ ラッド集』(二六)によって若い天才的な王党派詩人として認められ 、次第に清新な抒情をうたう新しい文学流派(ロマン主義)のリーダ ーと目されるようになっていったユゴーは、16世紀以来のさまざまな 詩形を用いた『東方詩集』(二九)でスペイン、イタリアから中近東 にかけての国々の異国情緒とギリシャ独立戦争の英雄譚とを中心に、 想像力のおもむくがままに飛躍する詩を追求する。それは彼のクロム ウェルの「序文」のロマン主義的詩論を見事に具現している。規則ず くめの旧来の文学に攻するロマン主義のマニフェスト『クロムウェル 』の「序文」において、ユゴーは反古典主義論を展開し、霊肉、美醜 、悲劇・喜劇等の対立を劇において綜合すべきことを唱え、ロマン主 義の文学理論を宣言する。この「序文」の発表と「エルナニ合戦」の 勝利によって、文学の主導権はロマン主義に移り、擬古典主義への逆 戻りを防ぐことになる。この時期を「文学の解放」の時期と言うこと ができるだろう。こうしたユゴーの活動によって、ロマン主義はやが て劇壇を制覇し、文壇の主流となる。 ○第二の時期 (1830〜1848年) ところで、こうした文学的主張―――つまり文学の規則からの自由や 解放の主張は、やがてユゴーが七月革命を契機として自由主義にめざ めるようになると、社会的な解放の主張につながっていった。これが 第二の時期で、1830〜1848年の七月王政時代にあたっている。この時 期に、クロムウェルの「序文」と関係の深い、ロマン派小説の一つの 典型である『ノートルダム・ド・パリ』(三一)、『レ・ミゼラブル』 (六二)が着想されている。いずれも民衆、自由、人道主義を称揚す るものであった。二〇年代には王党派であったユゴーは、七月革命を 経験して以来、文学が社会の不正を正し、社会的弱者を解放する手段 となることを望むようになった。そればかりか彼は、貴族院議員とし て自ら社会改革にのりだそうとしたのである。こうして政治的活動の 場が増えるにつれユゴーの創作は活力が失われ、四三年には娘の事故 死と『城主』上演失敗も重なって、文学から離れるかに見えた。この 時期には4つの詩集『秋の木の葉』(1831)『薄明かりの歌』(1835) 『内心の声』(1837)『光と影』(1840)が書かれている。ここでユ ゴーは愛を歌い、自然との交感を描き、無限の声をこだまさせるエコ ーと化し、詩人の使命を自覚してゆく。 ○第三の時期(1848年〜1851年) やがて1848年に二月革命がおこると、ユゴーは現実の政治の中に深く 巻き込まれることになる。それ以後、1851年12月2日のクーデターま で、彼は息子たちが発行していた政治新聞《エヴェヌマン》を援助し たり、議会でさまざまな演説を行なったりするが、こうした体験をと おしてユゴーは、現実の社会に対する理解を深めていった。これが第 三の時期である。ユゴーはこの時期、社会的にばかりでなく政治的に も民衆を解放することが必要だと痛感するようになるのである。 この二月革命の共和主義思想に共感を抱いたユゴーは、ナポレオン三 世の独裁に断固反対し、国外追放処分の宣告をうけると、英仏海峡に あるジャージー島へ、ついでガンジー島へと逃れるが、この亡命生活 が彼に再び文学創作の活力を与え返すのである。 ○第四の時期(1851年の亡命〜1885年) すでに、ユゴーはルイ−ナポレオンのクーデターに際しては、これに 対抗して、抵抗運動を組織した。抵抗運動は敗れ、ユゴーは以後19年 に及ぶ亡命を余儀なくされるが、この亡命と共にユゴーの第四の時期 が始る。亡命してまもなく、ユゴーは非常に重要な体験をした。それ は交霊術である。交霊術の経験を契機としてユゴーは、彼がそれまで にも抱いていた神秘的な思索を深めるようになる。とはいえ、ここで 述べておかなければならないのは、こうした神秘主義的な思索が、ユ ゴーの場合には、決して現実の世界からの逃避にはならなかったこ とである。ユゴーが神秘的な瞑想に耽るのは、絶対の地点から現世を より明確に眺めようとするためであり、貧窮と無知と肉体の三重の牢 獄の中に閉じ込められた民衆の魂をいっそう解放するためなのである 。亡命時代をまってユゴーの文学は頂点に達する。文学的解放、社会 的解放、政治的解放、さらには宗教的解放、こうしたものが混然とな り統一されて、一つのユゴー的な宇宙がつくりあげられ、そして数々 の代表的な作品が次々と生み出されるのである。それらを具体的に見 てゆくと、この亡命生活当初に作られたナポレオン三世を嘲弄する風 刺詩『懲罰詩集』(五三)、亡き愛娘レオポルディーヌィヌの追憶と 、生と死、可視界と不可視界との交感をテーマとする形而上学的詩編 『静観詩集』(五六)、さらには天地創造とアダムとイヴの誕生から 始まり、フランス大革命をへて同時代の社会にいたるまでの全人類の 歴史を、バベルの塔の夢限に上昇する回廊に展開する壁画さながらに 描きだす、ユゴー詩の集大成、長編叙事詩『諸世紀の伝説』(第一集 、五九)(第二集、七七年)が生まれる。一方、六二年には四八年以 来中断していた、宿命に抗して立ち上がった民衆の叙事詩、友愛を基 底にし、進歩を頂点にかかげた社会小説『レ・ミゼラブル』もようや く完成し、出版と同時に大きな反響を呼んだ。 七〇年、普仏戦争の勃発および第二帝政崩壊と同時にユゴーは帰国し 、国民的英雄として迎えられた。さらに『諸世紀の伝説』の完成に努 力するとともに、長編詩『サタンの終わり』と『神』を書き残し、八 五年に他界、国民詩人としてパンテオンにまつられた。 ●まとめ このように、政治活動がその文学の隅々にまで行き渡っているもっと も代表的な作家であるユゴーの思想はさまざまに変貌しているが、 そうした変貌を追って行く時、我々は彼の文学を貫く一本の線を見出 すことができる。それは「自由」の追求であり、文学が娯楽でも装飾 的な美の実現でもなく、真理の探究の手段であり、この世に真理を実 現する手段であるということである。 |
×ミキモトコメント |
ユゴーは日本では「レ・ミゼラブル」の作者としてよく知られていますが、フランス ではまず小説家としてよりも大詩人として認識されているのが一般的ではないでしょうか。そして、なにより当時の文壇を席巻しつつあったロマン主義の中心的存在であり死ぬまで国民的な作家でありつづけ、19世紀フランス小説界の最初の王様っていう感じなのではないでしょうか。。きっと親分肌だったんでしょうね。政治家にもなりましたしね。葬式は国葬でしたし。 それでこれは全然関係ないんですが、彼は女たらしで云百の女性と関係したことも有名でもあります。うーん、すごい。 |
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