●『小説が持つ面白さ・小説があまり読まれなくなった理由
−マヌエル・プイグ
「蜘蛛女のキス」を読んで−』
現在日本でよく読まれている小説といえば太宰治の「人間失格」や夏目漱石の「こころ」を思い起こす。これらは本を読む人、本を読まない人、誰もが知っている作品である。現代国語の教科書にそれらが載っていることを考えると当然であろう。
毎年夏になると各出版社が文庫本のキャンペーンを行う(新潮、夏の100冊など)。その時併せて無料の小冊子がレジに置かれ、それにはその年の作品ラインナップや前年度の売り上げトップ10が必ず載っている。毎年その順位には多少の変動は見られるが上記の2作品がトップ10から外れたことはない。ここ10年ほどは吉本ばなな、村上春樹、村上龍などの現代作家がよく売れているが、彼らの作品はそのランキングの中で上位(5位以内)に入ることはそれほど多くない。
これは何を意味しているのだろうか。
単純に考えられることは、一般読者が吉本ばなな、村上春樹、村上龍を知らないということ。本を読む習慣のない人で村上・吉本を知っている人が果たしてどれくらいいるのだろうか。そう考えれば、逆に太宰や漱石は、本を読まない人も含めて、全員なんらかの形で知っているので売れる、そのために上記のような結果が生まれるのではないだろうか。
夏目漱石の「こころ」は、私自身の体験によれば、高校の教科書に掲載されてあったし、漱石の評論の文章もいくつか読んだ覚えがある。そもそも1000円札の顔を知らない人はいない。太宰にしても「走れメロス」を知らない人は極々少数だろう。要するに自分から情報を得ようとしなくとも、少なくとも、この二人についてはなんらかの情報を誰もが持っているのだ。また、出版各社が夏にキャンペーンを行うのは学生が読書感想文を書かなければならない時期だということもあるのだろう。このことを考えると、できるだけ、「確実」なものを選びたいという読者の意識があることが推測される。吉本や村上を読む人は少なくとも「人間失格」や「こころ」を読んだことがある人なのだ。つまり、漱石や太宰に飽き足らず、そこから移ってきた人達なのだ。
ところで、小説の面白さは人それぞれであるが、それは物語レベルでのことである。それはつまり「こころ」は面白いかと聞かれても答えは人それぞれ、としか言いようがないということである。
では、小説がおもしろく読める前提とはなんであろうか。それには様々な要素がある。例えば、最近は旧仮名遣いの文庫本など見かけなくなった。それどころか、小学校は4年生以上で習う漢字にすべてふりがなが振られている。私の経験で言うと「我が輩は猫である」を初めて読んだ時、その本が旧仮名遣いであったせいで随分とつまらなく感じた。そのように物語が面白いかということ以前の問題がある。それは外国の小説を日本語で読む時にも言えることであり、翻訳が自分に合っているかどうかでも随分違ってくる。そういうことを考えて行くと、どうも海外の小説、また、たとえ日本の小説であっても、現代の言葉、より自分達が使っている言葉に近いものでなければ、読まれない傾向があるのではないかと考える。
小説というものは言葉による表現であるだけに、その時代の言葉と密接に関わっている。作家はもちろん自分自身の生きている土地や時代の言葉で表現するために、その作品は時代と場所に反映されずにはいられない。そのような意味で漱石や太宰の作品は現代の私達から見るといささか感覚的に合致しない部分がある。普通、読者は漱石や太宰を読む時、その合致しない部分を無視して読むのである。なぜならそれを無視することなく読もうとすれば、それこそ漱石ならば、明治時代を知らなければならないのである。そのような手間の掛る作業をわざわざする読者はよっぽどそれに入れ込んでいる人か、研究者くらいであろう。しかし、私達が現代作家の吉本や村上を読む時、その合致しない部分は最小限で済むのである。文章は容易に頭に入ってくるし、なにより自分が今生きている世界(時代)のことが書かれていることが、小説をおもしろく読めるかどうかに、有利でないはずがない。それはこの数年の文学の世界的サブカルチャー化にもそれはあらわれていると思われる。
しかし、現在でも「こころ」が「ノルウェイの森」より多数の読者に読まれているという事実は変わらない。これは単に現代文学の力がないということなのかもしれない。事実、一昔前の若者に大江健三郎や実存主義の文学を読まない人がいなかったことを考えればその点ははっきりしていると思われる。
しかし、モノで溢れている現代においてはそうとばかり言えない。娯楽で溢れている今の日本では文学を読む人の方が遥かに少数派なのだ。今の文学の現状はそういう意味で非常に厳しいと思われる。他の娯楽に引き寄せられずにいる読者は最初に、時代や言葉づかいの異なる漱石や太宰から読み始め、それを面白いと思った人だけが、村上・吉本を読み、それを読んでさらにもっと小説を読みたいと思った人だけが、他の外国の作家などを読むのだ。最近読んだ雑誌に、文芸誌の読者は各誌それぞれ一万人を越えない、というようなことが書かれてあったが、これも合わせて考えると、日本における、文学の未来は暗いと考えざるえないように思う。
今回「蜘蛛女のキス」を読んで思ったのは、視覚的な小説だ、ということだ。作中でモリーナが映画の筋をバレンティンに語ること場面にしてもそうであるし、ほとんど密室の中の会話で進行する物語ということからも非常に視覚的である。読者は二人の個性的な囚人の姿を頭の中で想像せずにはいられない。また筋立て自体がミステリー仕立てで読者に先の展開を追わせるように出来ていること、また、映画のようにカットバックの用法が使われていることも読者に非常に視覚的に読まれる要素である。また、訳者が徹底的な口語体で訳しているために、映画や演劇の脚本を読んでいるようにも感じられた。それらはこの作品を成り立たせる重要な要素である。あるいは先に述べたように、囚人の刑務所内での物語ということが、土地や時代の差異をそれほど意識せずとも読者に物語を容易に浮かび上がらせる機能を果たしているのかもしれない。
考えてみると今までこれと似た状況の映画を見た覚えがあるし、この作品が最初であっても、類似のストーリーテーリングを持つ小説や映画を読んだ、見たという感じがしないわけではない。その意味で私はこの作品がさして新しくは感じられなかった。しかし、そのようなことを言い出せば、ほとんどすべての小説に類似があるようにも思える。
では、私達はそのような類似の物語以外のものだけををおもしろいと感じるのかといえば決してそうではない。むしろ、見たことのない、聞いたことのないものほどおもしろいと感じられないのではないか。これは程度の問題であるが、ある一定以上が理解可能な範囲のものを含んでいなければおもしろいとは感じられないのである。その意味で時代的、土地的差異の大きい小説ほどその差異を埋めるために、そのバックボーンのようなものを理解しない限りおもしろく思うことが出来ないのではないだろうか。
その意味で現代の私達若者は非常に勉強不足である。
最近私は卒論の関係でヌーボーロマンといわれている小説を初めて読んだが全く理解できなかった。高校生の頃、「ボヴァリー夫人」を読んでなんと退屈な作品だと思ったものだが、ヌーボーロマンはそれ以前の問題のように思える。私は今も「ボヴァリー夫人」を退屈な作品だとは思うがその小説史的な位置づけや、その作品の意義を知っているために、この作品にどのような面白さがあるのかが分かる。しかし、ヌーボーロマンに関してはほとんど時代的な位置づけしか知らない。それを学んだからといってヌーボーロマンが面白くなるかといえばそれは別問題だが、他の人が言うヌーボーロマンのおもしろさを理解することはできると思う。このように小説は読めば読むほど、学べば学ぶほど、おもしろくなる。逆に読まなければ読まないほど面白くなくなるものだと私は考える。
「蜘蛛女のキス」という小説はそういう意味で非常に面白い作品だと私は思った。おそらくこの作品を読んで私が感じた面白さは、同年代の多くの人が感じるものに共通するだろう面白さだと私は予想する。それはきっと私が先に言った視覚的なおもしろさだと思う。
私達の年代の人々は特に小説などの活字媒体よりも映画やゲームなどの視覚媒体に慣れきっているのだ。逆に言えば私達は活字媒体に慣れていない。それは特に小説や詩のように、読めば読むほど面白くなるものにとっては非常に不利であると思われる。要するに他に面白いモノがあるのだから、わざわざ面白くなるまで暇の要る小説を手に取る人は少ないのだ。そして、読む人が少なくなるということはどうしても読者のレベルを下げることになる。同じく書き手のレベルも全体的に下がることになるだろう。これは単純に数の問題である。そして、おそらく読者の数と文学のレベルは比例してゆくだろう。
私達の身の回りには今、インターネットなど非常に革新的な媒体が登場している。これで再販制も、是非はともかくとして、見直すことが可能になるだろうし、経済や流通においても変革の可能性があるように思える。それにともない表現の幅なども広がるだろう。しかし、やはり、インターネットにおいては言語が媒体である。そこにおける言葉の重要性は小説におけるそれと変わらないように思う。最後にそのインターネットで見つけた言葉を引用する。
アル・パチーノが監督・主演した『リチャードを探して』を観た。シェイクスピアの『リチャード三世』を映画化する過程をドキュメンタリー部分も交えながら描いた意欲作だ。シェイクスピアについての街頭インタビューがたくさん挟まっているのだが、その中にこんなのがあった。
●知性は言葉に現れる。感性のない言葉は何も伝えない。シェイクスピアをもっと学校で教えないといけない。そうすれば子供たちも感性豊かになる。感性がないから銃で殺し合ったりするんだ。感性豊かになれば、暴力もなくなる。
-----我々の言葉には感情がこもっていない。意味のない言葉を交わすだけ。言葉の数ばかり多くて意味が希薄なんだ。------小銭をくれよ。
最後の一言でえっ? と思われるでしょう。じつは乞食のおっさんの言葉なんです。他に学者などいろんな人が出てきたが、一番真理を突いてるよ。いやー、オドロキ、オドロキ。(10/30)
情報が過剰な現在においては、小説の存在意義はやはり、それが意味の希薄でない言葉の総体であるということにあると、私は考える。
「蜘蛛女のキス」bk1
「こころ」bk1
「人間失格」bk1
「走れメロス」bk1
「ボヴァリー夫人」bk1